2012年11月15日木曜日

古いMacBookでMindstorms NXTを動かす

多分それほど需要はないけど、もしかして役に立つこともあるかもしれないと思って記事にしておきます。(実は、自分自身の備忘のためというのが一番有力)
#一度やってみてまたダメだったので再挑戦してみました。

Amazonでホビー版のMindstorms NXT 2.0が3万円を切る値段で売られていたので、半分衝動買いで注文してしまいました。自宅に届いたものは、箱、ソフト、説明書など全てが英語表記でした。とは言え、特に困ることもなく順調にセットアップすることができました。

まずは、我が子と一緒に初めてのロボット作りに挑戦しました。組み立てが完了してから、デモプログラムを探して実行してみると、簡単に動いてくれました。

次に、Mindstorms NXT 2.0ソフトウエアを2台のMacにインストールしてみました。まず、1台めのiMacにインストールしたものは、全く問題がなく動作確認も無事に終了しました。しかし、その後が大変でした。もう1台のMacBookにインストールしたものは、どうしても動いてくれません。「ドライバーがない」といってダウンし、ドライバーを入れなおしても、数秒でダウンするといった有様でした。OSのバージョンも同じなのに何でこんなことが起きるかわかりません。いろいろと試行錯誤しているうちに、ようやく動作確認が出来るところまでこぎつけました。その手順をまとめておきます。
#公式サポートではありませんので、自己責任でお願いを致します。

【追記】以前よりも簡単な手順でできることがわかりましたので修正しました。(2012.11.15)
  1. Flash playerを最新のものにしておく←【追記】後に関係ないことが判明(2012.11.20)
  2. Mindstormsのサイトから、「Support > Files」のページを開く
  3. 「Drivers」から「Fantom Driver 1.1.3」を選び「Download」タグをクリックして、出てきた窓の下にある「Mac」ボタンをクリックする
    #「PhantonDriver_Download2.zip」というZIPファイルがダウンロードされるので、デスクトップに解凍しておく(「legodriver.pkg」というファイルが現れる)
  4. Mindstorms付属のCDからインストーラを起動し、指示に従ってインストール作業を行うが、最後の「再起動」ボタンを押さずに次の手順へ進む
  5. 「legodriver.pkg」を起動してDriverの再インストールを行ってから、Mindstormsインストーラの「再起動」ボタンを押す
  6. Macの「アプリケーション > LEGO MINDSTORMS NXT」フォルダの中の「MINDSTORMS NXT」をダブルクリックして起動する
これで、Mindstorms NXT 2.0が使えるようになりました。念の為に、再起動を繰り返したり、シャットダウンしてから再び起動したりしても問題なくMindstormsが起動しました。もしかすると、しばらくやっているうちにまたダメになる可能性もありますが、試用しながら問題があったら対処していきたいと思っています。(続きはまたこのブログで)さしあたって、FirefoxのFlashプラグインの調子がおかしい感じですが、Chromeでは問題なさそうなので、Flashが必要な物はChromeで使うことにしました。

 【追記】Flashは10.0までしか対応していないことが判明し、新しいものを入れると動かなくなることがわかった。バージョンダウンは、Adobeのアーカイブ版から探しだして行った。となると、なぜiMacで問題なかったかが気になるところ…。(2012.11.20)

2012年11月11日日曜日

学校が教育の最先端であるべき

私が若かりし頃は、研修先を見つけてさまざまな教育研究のイベントに参加したり、教育系の書籍を集めている書店に足を運んで本を買いあさって勉強したり、自分の指導力を向上させようと努力をしたものです。(そう言えば、独身の頃の休日は、図書館にいることが多かったなぁ。今はネットで調べられて便利だけど)否、そうしなければ校内での研修や官制研修だけではなかなか難しいという現状があったのだと思います。 結婚をし、子どもが産まれると外へ出る機会も減りましたが、その当時培ってきたことが今に生かされているなと感じることが多々あります。

その当時から比べると、教員の仕事はどんどん煩雑になり、やらなければならないことが多くなりました。合わせて、子どもたちの実態の変化や保護者・地域からの要望等まで考えると、若い先生が自己研鑚に時間をかけることができない現状があるような気がしてなりません。平日もかなり忙しいため、休日に子どもたちの作品やノートを持ち帰って添削する人もいるくらいですから、研修に使える時間もかなり限られたものになるでしょう。「それでも頑張れ」と発破をかけるのはたやすいことですが、現実の問題として、それでは先生たちがどんどん疲れていくだけになってしまいます。私自身は、遠くへでかける時間がないのなら、せめて近くで何かしてあげることができたらと考えることもあります。

そんなことを考えていた折、「なぜ学校現場が教育の場のみで研究の場になっていないのか」という疑問が湧いて来ました。教育の最先端は、その対象となる子どもがいる現場であるはずで、子どもから離れた場所に最先端があるという考え自体がおかしいことだと思うのです。これは、教育政策の内容なのかもしれませんが、研究者が学校に入って学校の実態をしっかりと捉え、現場教員とともに研究を進めることができたら、そして、その成果を多くの学校や教員でシェアすることができたら、学力向上にもつながるだろうし、教員の資質向上にもつながるだろうし、教育学も発展する気がします。もちろん、現状のままで単純に研究者を入れても、忙しい教員にとっては「厄介な制度」なだけですのでお断りと思われることが多いでしょう。しかし、教員の仕事として教育と研究の両方をきちんと位置づけ、その時間を確保し、その立場を保証し、社会的にもそれを尊重することができたなら、徐々に成果が現れるように思います。(その意味で、行政的な思考で取り組まれてしまうと、きっと失敗する気がします。教育が行政から独立する必要があると思いますが、そのことは別の機会に。)

教育とは関係のないところで先生を使って、資質の浪費を行うくらいなら、教育の専門家としての誇りを持たせ、その資質向上に専念してもらうことの方が重要なのではないかと考えます。そのための仕組みづくりが重要なのですが、現状でできることとできないことを明らかにし、どうすればそういう仕組みを作ることが出来るのか、考えて行かなければならないと思っています。

心を育てる教育って…

最近巷では、道徳心とか愛国心とかを「学校で育てるべき」とする話が出てきて、かなり違和感を覚えています。そもそも学校というところは、そういう心を育てるという意味で最も不向きな場所だろうと思います。などと書くと、某アジアの国のような事例を引っ張りだして、「教育している国もあるじゃないか」と言う人もいるでしょう。はたから見ていて、あのような道徳心教育や愛国心教育で本当にいいのですか?と逆に問いたくなります。これだけ価値観が多様化しているのだから、学校で育てられる「心」などたかが知れている。(学校で教えたところで覆される日々)むしろ「規則」として守るべきことを徹底し、公共の場で過ごすための心構えや態度を身につけさせることに専念した方が現実的だと思います。(敢えて心の中身を問わない)

それにもかかわらず、学校で起きるさまざまな問題事例を引っ張り出してきて、「道徳心教育、愛国心教育の充実を!」なんて声高に叫ぶのには、何か別の意図を感じてなりません。特に為政者やそれにおもねる連中が言うと、その胡散臭さは何倍にも膨れ上がります。私自身は、学校が政治的に利用されるのは勘弁してもらいたいと思っているし、そういうことに加担したくないとも思っています。
#結局、問題の原因を「〇〇教育が充実していなからだ」ということによって、根本的な問題から目をそらせて、すべてを現場の教師の理解や力量が足りないからとしようとしているようにしか思えない。それで、「先生の権威が失墜した」って誰がそうさせたのよと言いたい。

為政者は、教育に口を出すことで道徳心や愛国心を育てようとするのではなく、道徳心や愛国心を発揮することが良いと思える国造り、母国として誇れる国造りをすることの方が大切なのではないかと思います。それこそが為政者の使命であり、為政者として日本人の心を育てることになるのではないかと思います。

2012年11月3日土曜日

学校が守ろうとしているのは…

(以前にも、どこかで書いたかもしれませんが…)学校というところは、多くの個人情報の集まる場所です。その昔、地域コミュニティーがしっかりしていて、学校よりも地域コミュニティーの方が情報量が豊かだった時代には、各家庭の状況や子どもの実態を地域の人達がよく知っていて、個別の対応をしても誰も文句を言わなかったと思います。しかし、地域のコミュニティーが崩壊してしまった今日にあっては、学校の方が個人情報が集まっているという状況になってしまい、個別のニーズに対応してしまうと「不公平だ」「説明をしろ」と、さも学校が悪いような言われ方をするようになってしまいました。

よく考えれば分かりそうなことだと思いますが、例えば、ある子どもに発達障がいがあることがわかったところで、全校で「この子は発達障がい児です」と紹介することなど皆無と言って良い。その他にも、偏見をもたれやすい病気や障がいを持った子どもが在籍している場合も、できるだけ偏見を持たれないように配慮し、必要な補助をする(十分とは言い難いのは別の問題として)のが学校というところです。その場合も、病名や障がい名をはっきり言うことは、ほぼないと言ってよいでしょう。しかし、それに由来する問題が発生した時、「学校は何をしているんだ」と叩かれても、説明のしようがないことがあります。

例えば、突然病気や障がいを抱えている子に対応しなければならなくなって、担任が教室をあけていたとします。その間に子どもたちがケガをしたとして、その原因を追求して「先生は何をしていたのですか?」「いつもその子にばかり目をかけるのはおかしいのではないですか?」と言われても、「実は…」と本当のことは言えないのです。だから、お詫びする以外にない。(余分に人を雇える状況にもないのですから対策のしようもない)それを指して「先生は隠し事をしている」「隠蔽体質だ」「本当のことを言わないのは不誠実だ」と言われても困るのです。
#最近「思いやる」とか「慮る」ということができない方が多くなったように思いますね。

更に深刻なのは、保護者自身が抱える病気や障がいです。子どもに罪はないのに、子どもが周りの子どもや大人からいろいろと言われてしまって傷ついてしまうことがあります。「先生からも保護者に言ってください」とお願いされることがありますが、これこそどうにもならない。もちろん本当のことなんか絶対に言えないです。場合によっては、変な噂として、事実でないことが流れてしまうことがあります。学校で「それは事実ではない」と言ったところで、保護者を巻き込んだ噂話はなかなか止められません。

学校を叩く前に、先生たちは何を守ろうとしているのかを考えて欲しいのです。自己保身だけに走る不届きな輩が存在することは否定しません。しかし、多くの場合は、子どもたちや保護者を守ろうとしています。そこには、個別の事情があるのですから、すべてを明らかにすることはできません。本人たちが同意して、是非話して欲しいと言われない限り、それを口に出すことはできないのです。そういう、学校が置かれた状況をよく理解しなければ、今の学校問題の本質が見えてこないと思います。(他にもたくさんありますが、まずは一つということで)